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言語化ありがとうございます

ここ数年かと思いますが、日本語のインターネットで「言語化ありがとうございます」という表現を見かけるようになりました。流行りを超えて既に定着したのかもしれませんが、私は積極的には使いません。自分の日本語感覚ではしっくりこない表現です。今回はなぜ私がこの表現に何か言いたくなるのか言語化してみようと思います(言語化ありがとうございます!)

大前提として言葉の定義は人によって違います。例えば私は「まなび」とか「きづき」などの言葉の意味を知りません。ある程度の推測はできますが、話してる人の意図と同じかどうかわかりません。「学び」「気付き」との違いもあるでしょう。ですから、それらの言葉を定義なしに使っても、私には言語化できたことになりません。そもそも「言語化」が必要なことは抽象的あるいは複雑な概念を伴うことが多く、言葉の定義のすり合わせなしに「言語化する」のはハードルが高いことです。そうなるとカジュアルに使われる「言語化ありがとうございます」は大した意味を持ち得ないのではないでしょうか。あまりカッコつけずに「なるほど、なるほど」くらいで良いと思います。カッコをつけないはずが「」を付けてしまいました。

どうして「言語化」という言葉が気になるのかといえば、私が職業研究者だからだと思います。私は論文を書くことを仕事にしています。論文を書くことには、起こったことを言葉で説明したり、具体的な現象を抽象化して言葉にしたり、新しい発見に名前をつけるようなことが含まれます。「言語化する」ことが仕事の一部になっており、普段から言葉の使い方には気を付けています。同業者には同じようなクセを持つ人が多いと思いますし、仕事以外でそのクセを見せるとウザがられるのも理解しています。自分の仕事において言語化で注意しているのは「自分の言葉・文章の意味が常に一意に定まる」ことです。自然言語では意識しなければ文意が常に一意に定まることはありません。言語学を研究する友人にもなると「太郎が赤いドアの車を買った」ときに、赤いのはドアか車かあまつさえ太郎かさえもは自明ではないところからスタートするようです。これは私の 100 倍くらいヤバいです。私はそこまで極端ではないですが、英語で文を書くなら、cultural exchange と exchange of culture で意味が異なってくるか文脈も含めて気にしています。そういうこともあり「言語化の天才」と評されるような人の書く文章は興味を持って読んでいます。すると「言語化」という言葉がいろいろな意味で使われているのがわかります。私がしているのは、詩人や広告を作る人とは違う種類の「言語化」になります。畢竟「言語化ありがとうございます」と言いながら、人間は言語化の意味も簡単には言語化できないのです。私たちはお釈迦様の手のひらから一生出られないのではないでしょうか!

お釈迦様の手のひらの大きさを考えたとき「言語化」について自分にとっての重要な論点がもう1つあります。「言葉にしてわかった気になる」というのが良くないと思うということです。例えば、何か難しかったり、説明し難いことが起こったときに「それは文化だね」というような言葉でまとめることです。このようなまとめは、発言者の自己満足以上に何の価値もありません。完全に無価値です。日本無価値ばなしです。人は「自分の持つ言葉では何も意味のあることが言えない」「自分にはわからない」という居心地の悪さに慣れなくてはなりません。教育を受ける機会があった人であればなおさらその責務があります。複雑なものを複雑なまま受け入れ、自分の言葉では整理できないことを認め、それをそのままに、わからない不快感と共に生きていく、それが知的な態度だと考えています。「一言でまとめて」みたいなのも愚かな発想で、世の中には一言でまとまらないことがあるのです。わからないことはわからない、言葉にならないことはならない、それを認められたら私たちの住む世界はもっと生きやすい場所になると思います。

余談ながら、学生の頃に所属していた理系サークルでの思い出があります。あるとき「このグループのビジョンを話し合おう」という議論をしていました。そこで「まなび・きづき」という言葉を上手く活用して活動のビジョンを掲げた人はコンサルになり、「まなび・きづき」という言葉に「定義は何だ」と突っかかった人は研究者になり、「そんな議論に興味はない、具体的に何をするのか話そう」と言った人はエンジニアなりました。異論も反例もありそうですが、各グループに数人ずつ友人の顔が浮かびます。私の好みは研究者とエンジニアの間くらいです。これはただの小噺ですが、自分の考えを「まなび・きづき」のような意味のわからない言葉に投射せず、起こったことや自分の気持ちを言葉にするための努力は惜しまず、それでも言葉にできない不快感を甘受して生きていきたいと私は思っています。