生成 AI がなかったことに感謝する

教育現場では生成 AI 全盛で、大学では「学生が生成 AI を使うという前提で授業をデザインしよう」という話になっています。去年はレポートをどう対処するかと話してたら、既に今年は理数系の問題をどうするかと言う話になっており、進みが早いですね。教育者としてどうするのかは難しいのですが、実験系の研究者としては答えのない問題を設定すること自体はずっとやってきたことなので、まだ現在は対応できるようにも思います。

今回は生成 AI による文章作成の所感を述べたいと思います。誰かとの雑談中に出てきた話なのですが、私には「文章作成における生成 AI は四則演算における計算機のようなもの」という解釈がとてもしっくりきています。何かを入れれば何かが出てきて、何かを吐き出すプロセスはブラックボックスだけど正しい答えを出すように見える。出てきたものが正しいかは自分で判断する必要がある。そのような点においてです。そして私はそこから演繹して「生成 AI を文章作成に使い続ける人の平均的な言語力は、アメリカで初等教育を受けた人の平均的な数学力のようになる」という予想をしています。アメリカで初等教育を受けた人の平均的な数学力というのは「数量的な直感に乏しい」という意味で、私は教育の方法が理由だと思っています。とはいえ、私のアメリカの初等教育の印象は10年以上前のものなので、もし今は違うぜ、とかいうことなら教えて下さい。

アメリカに留学などしたことがある人は、売店など日常生活で遭遇する人の計算力のなさに驚いたことがあるかもしれません。暗算能力がどうこうという以前の問題で、そもそもの数量的な感覚が低いと感じます。これは特にデータはなく生活からの実感ですが、日本人の多くは同意すると思います。私はこうなっている理由は初等教育から計算機を使い続けてるからだと思います。反復練習をしていないからで、結果として数量的な感覚が全く磨かれる機会がないのです。また、そういう人の典型的な自己分析に「概念はわかるけど、計算ができない」というのがあります。しかし話してみると概念を全く理解してないこともわかります。計算ができないから概念もわからない、あるいはどこまでが計算でどこまがで概念かの区別すらついていない。厳しい状況です。もちろんアメリカの教育を受けても数学ができる人はいます。また計算機を使っても、人が達成しうる能力の最大値に影響はないと思います。高い能力を達成する人たちはセンスがあるか、こだわりがあるか、時間をかけるので、どのような状況でも特定の能力は身に着くでしょう。使い方によっては計算機の利用によって数字を扱う能力を伸ばす人もいると思います。とはいえ少数派でしょう。人は易きに流れます。

同様に初等教育から生成 AI で文章を作ることに慣れた社会では、文章力はもちろん、会話力・思考力などの自然言語を使う能力において同じことが起こってしまわないか、私は心配しています。反復練習の量が圧倒的に少なくなるからです。他人に自分の気持ちを代弁してもらい「言語化ありがとうございます」と言っていたら初期症状です。表現力が画一的になったり、自分の考えをスムーズに述べることができなくなります。数字に対する感覚と同じく、人が達成しうる能力の最大値に影響はないと思いますが、社会の平均的な言語能力が下がります。そのため多数の人を対象にしたテレビや新聞の表現は今よりも平易になり、対話での即時的なコミュニケーションが今よりもぎこちなくなるというのが私の予想です。

そういう意味で、アメリカの平均的な数字を扱う能力の惨状を見たことから、私は反復練習を阻害する道具を教育で使うのは危ういと思っています。特に読み書き計算を反復練習する年齢においては心配ですね。先進的な人が初等教育に生成 AI を取り入れろと主張するのは理解できますが、導入の仕方を考えないと特定の世代にダメージのある社会実験になるのではないでしょうか。10 年後に答え合わせがなされると思います。私はテクノロジーは好きなのですが、単純にどうなるのか怖いです。

余談ながら、私が何故上記のような話にわざわざコメントしたくなるかについて、それは自分にとって大事なトピックだからです。私は日本国外在住 25 年を超える人材の中では、まだそれなりに破綻のない日本語の長文を書けていると思っています。これはこのような場で日本語を書く練習をしている以外に理由がありません。「今の環境でこれから日本語能力が上達することはなさそうだけど、せめて下手になることには抗いたい」と意識的に思って過去 20 年くらい生活しています。私を駆り立てるのは日本語力を失う恐怖です。練習を止めてしまうと言語能力の維持すらイージーではありません(海外在住者にありがちな、得意の英語が出てしまいました!)愚直な反復練習が全てです。20 代の頃から私を知っている人は、私がインターネットに駄文を書くことが好きなのを知っていると思います。温かいコメント、冷たいコメント、フィードバック、冷笑、批判、あまつさえ無関心すらも全て包摂して、私は自然言語で文章を書くプロセスを楽しんでいます。それを「練習」という自己都合だけに矮小化するつもりはないのですが、結果として私は自分の日本語能力をギリギリのところで維持できてきたと思っています。しかし人は易きに流れますので、生成 AI が私の大学生のときにあったらどうなるかとも考えるのです。そして私は自分の言葉を生成 AI に代弁してもらうことができなかった過去 20 年に静かに感謝しています。

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というようなことを2024年に感じたので記録に残しました。2030年にどうなってるか楽しみにしています。