インターネットのコラムなど見ていると,大学は役にたたない,と言われてることがあると思います.これは多くの場合,大学を「使う」側の目的意識が明確ではないからです.何をしたいかを特に決めてなくて,ぼんやりと大学に進学しても得られるものはなくて,その結果そんなに役に立った感じがしない,ということです.
極端な例で言えば,水泳教室に行ったけど走り方は学べません.それに憤慨した人が「水泳教室は走るために役に立たない」と言っても,入る教室を間違えましたね,というだけです.私は大学教員なので,大学は役に立たないという声に反応しなければ怠慢だと言われそうですが,しかし大学は(水泳教室よりも教育内容の幅はあれど,とはいえ)何でも屋ではないのです.目的なく進学したり,目的のミスマッチがあった状態で進学して役に立たなかったと言われても,ああそうですか,以上のことは言えません.蕎麦屋に行ってもうどんは出てきません.何をしたいか明確でない人たちを満足させるのが役割だとは思いません.
大学側がするべきことは,まず大学で何が学べるかを明確にすることだと思います.自分たちの教育機関ではこれを提供するのが役割ですと明確にしないから,学生が混乱するし,色んな期待をしてしまうのだと思います.学生が何をしたら役に立ちそうかを想像して,あれもこれもできると何でも屋になるべきではないと思います.余談ながら私が距離を置いている考え方に「マーケットを見ろ」というのがあります.他人の動向や好き嫌いを見ていても,本質的なことはできませんし,何者にもならずにキャリアを終えるだけです.マーケットは自分の力の2割くらいでだけ気にして,残りの力は自分の大事なことにつぎ込むべきだと思っています.
前置きが長くなりましたが,少し範囲を狭めて,「理工系の研究大学」が学生に提供できるものは何かという考えを述べたいと思います.私の思う理工系の研究大学が提供するものは「研究活動を通じた教育」です.何を言いたいかわかりづらいと思うので,細かく説明したいと思います.
大前提として,研究大学(以下「大学」)の主な意義は,これまでに世の中に存在しなかった知識を生み出すことです.新しい知識を生み出す活動を,特定の学術的な題材(数学だったり物理だったり)で行うとも言えます.私は題材が何であれ,新しい知識を生み出すことに大学のユニークさがあると思っています.こういった活動に興味がない人は,大学そのものから得られることは少なそうです.不満が募ると思いますから,大学には進学しないのが良いと思います.一方で,ちょっとでも面白いと思ったらぜひ体験して欲しいです.
では実際に,どのような風に「知識を生み出す」ための教育をやっているのでしょうか.これはいくつかの段階を経ていると考えています.
学部課程.大学の役割が新しい知識を生み出すことだとしても,まず学部3年生くらいまでは「既に存在する知識を学ぶこと」に時間の大半を使うことが多そうです.これは高校までと似ていますね.基礎知識はスポーツでいう筋トレのようなものだと思うので,やっておいて損はしないと思います.一方で,既に存在する知識を学ぶのと,これまでに世の中に存在しなかった知識を生み出すのは,違うスキルになります.努力量が共通の変数になって,ゆるやかな相関くらいはあるかもしれませんが,根本的に違うスキルです.
学部研究.日本の大学では学部4年生で研究をすると思います.この研究活動を通じて,大学生は新しい知識を生み出すことに初めて取り組むと思います.メンター・研究室によってスタイルはありますが,大体の場合,この辺に新しいことがありそうだよ,とメンターの助言を得たり,問題の輪郭を明確に定義してもらった上で,問題を解くのが役割です.(これは余談ながら,アメリカやシンガポールの大学では全員がやるわけではありません.4年次の卒論は日本の大学の教育的に優れたところかと思います.)それなりに難しいと思います.
修士課程.修士課程では学部よりも少しヒントが少ない状態で研究に取り組むことになると思います.学部課程に引き続き,授業のような形で知識を学ぶこともあり,問題を解くことも大事です.差分でいうと「自分で問題を見つける役割」が増えます.これくらいになると,これまでの教育の主な内容であった「既に存在する知識を学ぶこと」とは少しずつ毛色が変わってきます.2年間で取り組む問題を1つ決めて,答えを出して,論文にできたら修了です.まあまあ難しいと思います.
博士課程.博士課程の場合も,修士課程のように研究は続けます.少しずつメンターのサポートなしで自走していくのが目的です.引き続き,既存の知識を学ぶ,問題を見つける,問題を解く,ことに加えて,問題の広い意義を説明するとか,自分の取り組んだ問題を既存の知識の中に(あるいは外に)体系的に位置づけて説明する,ようなことができると良いと思います.この段階になると,Google 検索で問題が出てることはありません.その問いを立てたのは世の中で自分が初めてなので、当然答えが出てくることもありません.上記のような学術活動をメンターのサポートなしで行えるようになったら,博士課程の成果としては万々歳だと思います.かなり難しいと思います.
以上,ざっくりとしたイメージですが,大学での研究を通じた教育というのは,下記のような流れだと思います.
知識を学ぶ | 知識を生む | 教育効果 | |||||
学部課程 | 〇 | 既に存在する知識を学ぶ | |||||
学部研究 | 〇 | 〇 | 明確に定義された問題を解く | ||||
修士課程 | 〇 | 〇 | 問題を見つけて,それを解く | ||||
博士課程 | 一生続く | 〇 | 問題を見つけて,それを解いて,その意義を体系的に説明する |
上記のような話を所与として,所感を述べようと思います.
私が大学教育の一番の価値だと思うのは,既に存在する知識を学ぶ人から,これまでに世の中に存在しなかった知識を生み出す人への変化が起こることです.この概念を理解するのは意外と難しいです.私は博士課程の終盤までかかってた気がします.勘の良い人は学部で理解できますし,修士までかかる人もいるし,博士課程でできる人もいます.世の中の誰もが研究者になるわけではないのですが,人口の一定割合がこのような活動に部分的にでも触れたことがあると言うのは,社会の強みになると思うので,私は大学には社会的な価値があると考えています.
社会人の偉い人が好んで言う「答えのない問いに向かう力」というのは,学部の研究くらいから少しずつ学ぶことです.現状のカリキュラムで研究経験のない学部生を集めても,高校生とあまり違わないかもしれません.学部を卒業した経験のみを元に大学での学びを総括すると「大学は知識を得て,問題を解く場所」という感想になると思います.そのような見方だと,インターネットのビデオを見てたら十分,という感覚も理解はできます.そして日本の政策決定者の多くはこのグループに属しているので,認識のギャップがあるように思っています.とはいえ「大学の授業に参加したから,大学の価値・意義はよくわかっている」というなら,「起業家のセミナーに参加したので,起業の価値・意義はよくわかっている」というくらいの勘違いです.
理工系大学で扱うトピックは物理・化学・生物などなので,「実世界の問題」に比べて,条件や変数が制御されているかもしれないです(それでも十分に複雑ですが).そして,そのような問いに向き合うのが意味がないかというと私はそうは思わなくて,既にどんな考え方があるか理解する,それと差別化する,それを文字や口頭で説明するなど,新しい問いに取り組むために必要な汎用的スキルだと考えています.一般にアメリカなどで博士号取得者が一定の評価を受けるのは,このようなスキルに対する評価があるからです.
長々と書きましたが,研究への取り組み方は個人差が大きいので,どの段階で何が出来ている,というのが決まってるわけではないとも思います.もっと良い説明の仕方があれば教えて欲しいです.反論・異論なども聞きたいです.
いずれにしても,理工系の研究大学に進学する機会がある学生は,大学教育の特徴を理解した上で,自分の教育機会のために使い倒して欲しいと思います.