高校学閥

日本にたまに帰ると,日本と自分の繋がりがどこにあるのかというのを意識します.いつだったか「日本語を話すこと」だけが日本との繋がりになってしまうんじゃないかという,恐怖にも似た感情を持ったこともありました.アイデンティティや帰属意識というような大上段に構えるつもりはないですが,下記のような話にも自分と日本の繋がりを示す一端があるのかと思います.

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最近よく紹介されてるこのシリーズ(中高一貫校の校長が,自分の高校を紹介するシリーズ)が興味深いです.各校の教育方針とか,男子校なので生徒が大学に行って少しの間イタいなどの内容については,私も私立中受験をして6年間中高一貫校に通っていたこともあり,共感するところもあります.それはそれとして,そもそもこういった連載が成り立つ土壌や,日本で「高校」というコミュニティーが持つ特殊性について,いくつか思ったことを書きたいと思います.

(1)日本では大学よりも高校以下の教育機関の個性が強い

まず第一に,東アジア圏は高校の個性がとても強いと感じています.これは個人的な経験にも基づく偏見も込みですが,私の住んでいるボストンは世界各国の恵まれた人ら(何らかの意味で自国で恵まれていた,例えば,金持ちだったり,家柄が良かったり,勉強ができたり,仕事ができたり)が留学してきます.そういった学生と仲良くなるにつけて,特に東アジア出身者の間では高校同窓の繋がりが強いと感じていました.例えば,中国・台湾・韓国出身学生の間では高校の同窓会がボストンで開催されるようですし,日本人の間でも,絶対数が少ないので規模は小さいですが,同様の会は存在しているようです.中国,韓国から海外留学する学生の多くは,民族〇〇高校とか△△外国語高校,のような高校の出身者が多く,とりわけ韓国人の理工系留学生のほとんどは,ソウル科学高校と呼ばれる科学に特化した高校の出身です.同僚の台湾人女性によれば,台湾人の女子留学生は台北にある特定の女子校出身率が高い(今の研究室では2名中2名が卒業生)ということです.その高校は日本統治時代に作られ今年が100周年だという話でしたが,東アジアの教育システムは歴史の過程で類似点がありそうなので,現代でも傾向が似ているのかもしれません.

他方,東アジアでは大学の序列が硬直化しており,大学が没個性だと感じます.これは高校学校における個性と対照的です.日本であればほぼ全ての分野での最高評価は東京大学に与えられ(韓国・ソウル大学,中国・北京大学,台湾・台湾大学などと読み替えても同じ),乱暴に言えば,京都大学のアイデンティティは東京大学を基準点においた「第2の大学」となってしまいます.これは正直もったいないし,人の流動性の観点からも最適だとは思いません.日本の大学序列はピラミッド型,アメリカの大学序列は台形型,と言われることがあって.アメリカの場合,台形の上辺に乗っている大学間で個性の違いがあると感じます.この個性の違いが東アジアでは一段階前の高校に存在するのかな,と思いました.

これは世界的に見るとどうなんでしょうか.アメリカでもフィリップスアカデミー,イギリスでもイートン高校というような,私も聞いたことがあるエリート校が存在します.(実はそれ以外は知りませんが.)フランスは結構早い段階で社会階層が決まるんでしたっけ? 1

何にせよ自分の知っているケースは限られますが,日本を含めた東アジアと,アメリカを比べると,上記のような「注目高校」といったトピックで,シリーズ化できる記事が書けてしまうの は,なんとも東アジア的だと思います.この連載はそういう意味でそこはかとない異国情緒を感じました.それは自分の経験が一般的な日本でのそれと異なるからかもしれません.

(2)「学閥」が早くに形成する社会は不公平じゃないか

一方で,端的に言えば,10代前半でどのグループに入るかの最初のスクリーニングを受けなくてはいけないのは,社会の構成員の多くにとって理不尽さがあると思います.グループ分けをするのにどの年齢が最適か,というのは議論の余地があるでしょう.あるいはそもそもグループ分けなどすべきではないのか,グループの垣根が低くなるべきなのか,いろんな考え方あるのだと思います.

まあ理想がどんなものであれ,私は生まれた段階で社会階層が決まっている社会(例えば,江戸時代以前の日本,カースト廃止前のインド,格差の大きい途上国などでもそうでしょうか)に対して理不尽さを感じるのと同じ理由で,年齢が低い段階でスクリーニングを受けさせられる社会は,生まれた環境(つまり,運)の影響が大き過ぎて,公平さを欠いていると思います.

もちろん「学閥」とかそれに明示的,暗示的に規定される社会階層で人生がの全てが決まるとは思いません.しかし,それらに価値を見い出している人が社会の一定数を占め,そしてその多くは経済的に恵まれ,権力を持っているのも現実だと思います.子どもの将来の可能性を広げたいと思う親心は尊重されるべきものです.でも親の価値観で子どもの将来を拓こうとした結果,子どもが低年齢の時に多大な負担を強いられる社会にもなりかねません.自分が親になったらどう考え方の折り合いをつけるのか難しいところですが,仮に「社会階層の分断が行われはじめる年齢」のような指標があったとして,自分は子どもがいたら,それができるだけ後の方に来る社会に住みたいと,今のところ考えています.〇〇を達成したいので△△を目指す,と最低限の意思決定をできる年齢の前に,将来に関する様々なことが決まってしまうのは,やはり不公平感が拭えないからです.

(3)自分が日本とあまり切れていないのは「学閥」の恩恵によるものが大きい

「学閥の早期形成は公平さを欠いている」などと主張しておきながら,偽善的ではあるのですが,その一方で私は「学閥的な繋がり」から恩恵を受けています.私は地方の中学・高校で6年間自由に過ごした後,大学生にも社会人にもならずにアメリカに来たため,プロフェッショナルな足場は日本にほとんどありません.にも関わらず,日本との関係が切れていません.日本を離れて10年以上も経つのに,それでも日本にまだ居場所があると思えているのは,日本人との繋がりによるものだと思っています.

家族との繋がり,ボストンで出会った日本人との繋がりは大きくて,私と日本の関係を豊かにする要素なのは間違いありません.それに加えて,出身中学・高校の繋がりも自分にとって日本との大事な繋がりであることを,30歳を超えて改めて感じることが何度もありました.前述のように,良くも悪くも,現状の日本社会の構造では,中学・高校の段階で人的基盤が成立しはじめるため,中学・高校で強い人的基盤に幸運にも乗っかった場合は,その後海外に出ても,日本との繋がりが大きく切れることはないと思う,というのが今の考えです.余談になりますが,進路選択をしていた当時高校生の私が受けた「今,海外に出てしまうと,日本との繋がりがなくなるよ」という教師のアドバイスは,必ずしも的を射たものでもなかったと思います.

以上,まとまりませんでしたが,高校段階で将来のグループ分けが始まる特殊性と,それに関する自分の所感について,でした.

Notes:

  1. 世界には初等教育以上を受けられるのは特権階級に限られている社会も多いでしょう.そのような社会では「閥(=所属グループ)」が生まれなが らにして決まっているのだと思います.線引きできるものではないのですが,今回はなんとなく(ある程度,本人の努力如何によって,選択の幅があるように見 える)先進国のケースをイメージしていました.