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続けること、積み重ねること

Fast-paced と言われる国に住んでいますが、続けることよりも変わることが評価される環境に生きていると感じます。店も学校も資本主義の理屈でどんどん潰れて、新しいものに変わっていきます。例えば私の子どもが通っていた保育園は、数年前に近所の保育園に M&A されて名前が変わり、ここから数年以内に経営の合理化でなくなくなるようです。私は古い人間なのかもしれませんし、年齢を重ねて古くなったのかもしれません。日本の実家の実家の近所にある幼稚園の前を通って、子どもに「小さい頃にお父さんはこの幼稚園に通ってたんだよ」と話せることが贅沢なことだと感じるようになりました。このように振り返られることは貴重なことなんですね。

私の好きな大学、東京工業大学が東京医科歯科大学と合併するいうニュースが数年前にあり、本日合併しました。私がどう感じたかを書きたいと思います。大前提として、部外者の私が考えられるようなことは関係者の方で全て議論されていることだと思います。このような何を選択しても不満を持つ人がいる難しい課題に対して決定をするのがリーダーであり、難しい決定に関わったどの方に文句を言うような意図もありません。私の知り得る情報は新聞記事とか各種の発表資料ですが、今回の東工大と医科歯科大の合併は 10 兆円ファンドの利益の配分を運営費として受ける「世界に伍する大学」になるための戦略として起こったのだと思います。140  年の歴史を持つ大学がこういう形でなくなるのは私は寂しいです。そして「世界に伍する大学」の大事な要素は何か、自分なりに考える機会になりました。

寂しいという私のお気持ちは「それってあなたの感想ですよね」と煽ってもらって構わないのですが、歴史を失うことは大学コミュニティとして、実利的にマイナスになります。例えばヨーロッパの大学は歴史が長いことに価値を見出しています。世界最古のボローニャ大学は「ここでコペルニクスが研究した」のようなことを誇り、自分たちのコミュニティの価値だと位置付けています。そこにおける価値は、論文数でもトップ1%論文数でもありません。1000 年以上大学が続いていることを誇るのです。大学は知識を生み出す場所ですが、同時に価値観を生み出す場所であり、歴史の積み重ねを記録する場所です。東工大では大正時代にもチェックシャツを着たモボが研究をしてたのかもしれません。でもモガはその場に立つ機会が限られたのかもしれません。戦時中には軍事研究を行い、高度経済成長期には産業に資する研究を行ったのでしょう。今の価値観で振り返ると、誇れること、そうでないことがあるとは思います。でも東京工業大学は紛れもなく日本の近代史を形作ってきた貴重な場所です。そのような歴史を失うことは「世界に伍する大学」の大事な要素を失うことです。歴史と伝統は世界中の大学が喉から手が出るほど欲しいものであることは、為政者が架空の伝説を作ることからも理解できます。

大学は多くの学生を受け入れ、卒業生を輩出します。その大学に在籍したことを誇りに思ってもらえるような、そういう場所を目指しています。東京工業大学は多くの留学生を受け入れ、世界に排出しました。私も大学教員になってから世界中で「東工大出身です」という研究者に会ってきました。私が工学系なので東工大の卒業生には会いやすいのですが、もちろん東京医科歯科大学に留学した学生も多いと思います。日本在住であれば合併から名義変更するという文脈を耳にするのかもしれません。さらに大学関係者なら運営費のための組織再編成という理屈も理解できるでしょう。どの国でもありそうなことですし、私も理解はできます。ただ外国にいる大学に関係のない卒業生にとっては自分のコミュニティを失う感覚だと思います。このようなネットワークや帰属意識を弱くすることは、「世界に伍する大学」を目指すことの障害になることは理解されているでしょうか。MIT の強さは現在発表している論文があることだけではなく、以前に MIT にいたことを誇る世界中の卒業生が支えるものだからです。

畢竟、大学を大学たらしめるものは、予算でも論文数でも、ましてや大学発スタートアップの数でもありません。人であり歴史です。大学の歴史、卒業生の帰属意識というような要素は定量化できませんが、大学がコミュニティとして価値を持つのに大事な要素です。それが 140 年続きました。すごいですよね、東工大。私の生きてる長さの3倍以上です。そういう意味で、大学の名前を変えることは、大学が継続してきて、積み重ねてきたものを簡単に毀損することになりかねないので、私は率直にもったいないことをしたと感じました。ましてやそれを手放した理由が、短期的に得られる研究費・運営費を得るためというのは、一体日本の大学政策は何を考えているのかと思うんですよね。ここから 10 年論文数が増えることと、これまで 140 年大学が歴史を重ねたことでは、後者の方に価値があります。そしてこれは主観ですが、後者の方が世界の同業者から尊敬されることでしょう。歴史を手放すように仕向ける施策を大学に選ばせてしまうことは、言い方はすいませんが、日本の大学政策は金を配分するセンスも、積み重ねを尊重するセンスもないと感じます。日本は「歴史の長い会社数」みたいなランキングでは世界のトップで、何かが続くことを評価できる土壌・価値観がある程度は共有されてると思っていましたし、私の知る日本はそういうことに価値を見出せる社会でした。貧すれば鈍するなのかもしれませんが、そういうことを全て含めて寂しいと感じた次第です。

「経営はどうすんの」と賢い社会人は言うでしょう。解決策は知りませんが、経済的な問題があることはみんなが知ってます。でも経済的な問題があることの以前に、自分がどうありたいかという価値観がないことが私は問題だと思います。そうでないから経営の合理化をするとか、運営費を獲得するなどの、低レイヤーでの価値観に翻弄されるのだと思います。私は大好きな東工大レベルの大学がそこまで鈍したとは思いたくありません。結果として東京工業大学は 140 年の歴史を今日リセットしたわけですが、また 140 年かけてもっと高みに辿り着けることを願っています。でもその頃には我々の誰も生きていませんし、歴史はそれくらい重いものだと思います。私は卒業生でもなければ中で働いたこともない完全な部外者ですが、一工学系研究者として東京工業大学が好きなんですよ。国のトップにこのような工学系の大学があることは、一大学以上の意味合いがあります。今日降ろしたものの重さの上に、また次の 140 年、そしてそれ以上の年月を積み重ねられることを願っています。